双璧
松下村塾の双璧について。
【松下村塾とは・・・】
蟄居中の吉田松陰が開いた塾のこと。名の由来は「松下村にある塾」物事は得てしてそんなもの。
松陰自身は安政の大獄で29歳という若さで没してしまうのですが、その人生において低い身分ながら神童ど呼ばれ、藩主お目見えを果たし、遊学し、諸国の友人を携え、アメリカ戦に乗り込もうとし、自首し、のち回天を行う士を育て、非業の死を遂げる。と実に波乱万丈な人でした。
また「僕」「君」という当時主流ではない言葉を用い、塾生たちと自分は"対等"などだ、という姿勢を見せました。
師ということで年上に見られがちな松陰は大久保利通と同じ年生まれで西郷隆盛よりも年下なのです。
久坂玄瑞もまた、神童と呼ばれ諸国に遊学に行った人間です。
たが藩医の家柄のため、本当に漫遊に行ったわけではなく長崎へ蘭学を学びに彼は出かけました。
ちなみに医術の才能はなかったといわれています。
久坂がたぶんに影響を受けたのは20年上の実兄。藩医でありながら志士としても活動する玄機の姿に幼い玄瑞はあこがれたのでしょう。
ですが、父と兄をはやり病で亡くした玄瑞は次男でありながら家禄を継ぎ、志士ではなく藩医として兄を継ぐはずでした。
そこで出会ったのが松陰です。
自分と同じ神童と呼ばれた松陰に興味を持った玄瑞は手紙を送りました。
しかし返ってきたのは挑発ともとれる文章です。
憤った久坂さらに手紙をかき、塾に入る前からこの二人は何度もふみのやり取りをし、いろいろあった最後に久坂は松陰を尊敬し、門下に加わります。
松陰は大変感動しました。
しかし、松陰は気がつきました。
この塾に久坂と切磋琢磨できる人がいないことを。曲がりなりにも自分は師です。腰は低いが年長者だし導く立場の自分はとても久坂と切磋琢磨できません。
竜虎そろわず・・・・・・松陰は嘆きました。
ちなみにこのころ塾にいたであろう人は、三傑といわれ久坂・高杉と同等に語られる吉田栄太郎(のちの稔麿)や四天王といわれ三傑とともに称えられる入江九一・野村靖兄弟・三代目総理山県有朋・初代首相伊藤博文などなど(前後している人もいるが)とにかく後世の人間からみたらすごい人ばかりでした。ほかにも東洋のナポレオンこと山田顕義や品川弥二郎、前原一誠などなど、とにかくすごいラインナップなのです。
高杉を松下村塾に誘ったのは久坂でした。
高杉は生まれつき体が弱く、また上士高杉家待望の嫡男というだけあって大変箱入り息子でした。通うことすら名誉である明倫館に身を入れず剣術にはまっていた時期です。
そんな高杉に久坂は松下村塾を紹介しました。
が、高すぎは箱入りなのです。蟄居中の人間が下士農民に教えている塾に通うことを許すわけが無い!! 祖父に頭の上がらない高杉は仕方なく家族の寝静まった夜に松下村塾へ通いました。村塾が24時間フリータイム制だからできたことなのですね。
高杉は親の監視が厳しく行けない日は「愚父が物分りわるくて・・・」と手紙をだしていました。ちなみに父親にも頭が上がらない人です。
久坂と違い高杉はすぐさま入門しました。
ただし松陰によって強烈に自尊心を刺激され久坂をライバルと思わせた上で、ですが。
松陰は喜びました。
この塾に竜虎がそらった、と。
実際廃れていた高杉は見る見るまに力をつけます。もともと明倫館での成績も軒並み上がり優等生になったそうです。そうして二人は名実ともにライバルになり、しのぎあい競い合い助け合う二人を人々は「松下村塾の双璧」と呼ぶようになりました。
【松下村塾とは・・・】
蟄居中の吉田松陰が開いた塾のこと。名の由来は「松下村にある塾」物事は得てしてそんなもの。
松陰自身は安政の大獄で29歳という若さで没してしまうのですが、その人生において低い身分ながら神童ど呼ばれ、藩主お目見えを果たし、遊学し、諸国の友人を携え、アメリカ戦に乗り込もうとし、自首し、のち回天を行う士を育て、非業の死を遂げる。と実に波乱万丈な人でした。
また「僕」「君」という当時主流ではない言葉を用い、塾生たちと自分は"対等"などだ、という姿勢を見せました。
師ということで年上に見られがちな松陰は大久保利通と同じ年生まれで西郷隆盛よりも年下なのです。
久坂玄瑞もまた、神童と呼ばれ諸国に遊学に行った人間です。
たが藩医の家柄のため、本当に漫遊に行ったわけではなく長崎へ蘭学を学びに彼は出かけました。
ちなみに医術の才能はなかったといわれています。
久坂がたぶんに影響を受けたのは20年上の実兄。藩医でありながら志士としても活動する玄機の姿に幼い玄瑞はあこがれたのでしょう。
ですが、父と兄をはやり病で亡くした玄瑞は次男でありながら家禄を継ぎ、志士ではなく藩医として兄を継ぐはずでした。
そこで出会ったのが松陰です。
自分と同じ神童と呼ばれた松陰に興味を持った玄瑞は手紙を送りました。
しかし返ってきたのは挑発ともとれる文章です。
憤った久坂さらに手紙をかき、塾に入る前からこの二人は何度もふみのやり取りをし、いろいろあった最後に久坂は松陰を尊敬し、門下に加わります。
松陰は大変感動しました。
しかし、松陰は気がつきました。
この塾に久坂と切磋琢磨できる人がいないことを。曲がりなりにも自分は師です。腰は低いが年長者だし導く立場の自分はとても久坂と切磋琢磨できません。
竜虎そろわず・・・・・・松陰は嘆きました。
ちなみにこのころ塾にいたであろう人は、三傑といわれ久坂・高杉と同等に語られる吉田栄太郎(のちの稔麿)や四天王といわれ三傑とともに称えられる入江九一・野村靖兄弟・三代目総理山県有朋・初代首相伊藤博文などなど(前後している人もいるが)とにかく後世の人間からみたらすごい人ばかりでした。ほかにも東洋のナポレオンこと山田顕義や品川弥二郎、前原一誠などなど、とにかくすごいラインナップなのです。
高杉を松下村塾に誘ったのは久坂でした。
高杉は生まれつき体が弱く、また上士高杉家待望の嫡男というだけあって大変箱入り息子でした。通うことすら名誉である明倫館に身を入れず剣術にはまっていた時期です。
そんな高杉に久坂は松下村塾を紹介しました。
が、高すぎは箱入りなのです。蟄居中の人間が下士農民に教えている塾に通うことを許すわけが無い!! 祖父に頭の上がらない高杉は仕方なく家族の寝静まった夜に松下村塾へ通いました。村塾が24時間フリータイム制だからできたことなのですね。
高杉は親の監視が厳しく行けない日は「愚父が物分りわるくて・・・」と手紙をだしていました。ちなみに父親にも頭が上がらない人です。
久坂と違い高杉はすぐさま入門しました。
ただし松陰によって強烈に自尊心を刺激され久坂をライバルと思わせた上で、ですが。
松陰は喜びました。
この塾に竜虎がそらった、と。
実際廃れていた高杉は見る見るまに力をつけます。もともと明倫館での成績も軒並み上がり優等生になったそうです。そうして二人は名実ともにライバルになり、しのぎあい競い合い助け合う二人を人々は「松下村塾の双璧」と呼ぶようになりました。
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2008年9月30日|
カテゴリー:ホームページ見聞録ブログ




