吉川岩国家
吉川家は長州岩国藩の藩主であり、非常に長州毛利家から冷遇された家である。
だが260年の太平を飛び越えれば、吉川が毛利にとってどれほど重要だったか紐解ける。
そもそも吉川家は毛利中興の祖・毛利元就の最愛の妻の実家である。
そして元就の異母妹も吉川家に嫁いでいる。
さらにいうなら元就がまだ若かったころの中国は戦国最盛期であり、大内と尼子という巨大勢力がその覇権を争っていた。
大内は一度天下をとったほどの家であり、尼子は一度領土召し上げられても生えあがった屈強な家である。
そして元就たち国人はそのどちらにつくか、常に悩まされていた。
そんななか、二重の婚姻を結んだ吉川家は尼子についた。
だが毛利は尼子と衝突した。
そして吉川家に不幸か続くと自分の次男を養子に出し、吉川を尼子から大内・・・いや、毛利側へと転進させたのだ。
つまり吉川家は毛利にとって親族であり、ひとつの巨大派閥ともいえるだろう。
「毛利両川」といわれるように、毛利という主柱をささえる支柱の代表格であった。
だが豊臣政権から風向きが変わってくる。
豊臣は小早川を優遇し、吉川を冷遇した。また、吉川家当主の元春も秀吉にいい感情を抱いていなかった。
そして元春、長男の元言が相次いで他界した。
吉川家を継いだのは、豊臣に人質として出されるもすぐに暇をだされた広家であった。
広家は養子の件もあいまって、豊臣にいい感情がなかった。
そして関が原、広家の行動が大きく歴史を変える。
家康にだまされ、危うく毛利の断絶になりかけた広家はあせった。
広家にとって豊臣はどうでもいいし、石田三成は気に食わないが、毛利は大切だったからだ。そもそも家康も「毛利を大事と考えればこそ」といって広家を誘惑したのだ。
広家は自分に当てられた防長二国を毛利に謙譲し、自身は岩国藩に納まった。
しかし毛利から見れば、勝手に画策し、勝手に術中にはまった広家の行動を許せるわけがなく、こうして吉川岩国家は毛利に冷遇されるのである。
また時は勢いよく過ぎ、幕末。
長州征伐で騒乱状態の長州と幕府の折衝役に選ばれたのは吉川家であった。
蛇足だが。錦帯橋も江戸時代にかかった橋である。
だが260年の太平を飛び越えれば、吉川が毛利にとってどれほど重要だったか紐解ける。
そもそも吉川家は毛利中興の祖・毛利元就の最愛の妻の実家である。
そして元就の異母妹も吉川家に嫁いでいる。
さらにいうなら元就がまだ若かったころの中国は戦国最盛期であり、大内と尼子という巨大勢力がその覇権を争っていた。
大内は一度天下をとったほどの家であり、尼子は一度領土召し上げられても生えあがった屈強な家である。
そして元就たち国人はそのどちらにつくか、常に悩まされていた。
そんななか、二重の婚姻を結んだ吉川家は尼子についた。
だが毛利は尼子と衝突した。
そして吉川家に不幸か続くと自分の次男を養子に出し、吉川を尼子から大内・・・いや、毛利側へと転進させたのだ。
つまり吉川家は毛利にとって親族であり、ひとつの巨大派閥ともいえるだろう。
「毛利両川」といわれるように、毛利という主柱をささえる支柱の代表格であった。
だが豊臣政権から風向きが変わってくる。
豊臣は小早川を優遇し、吉川を冷遇した。また、吉川家当主の元春も秀吉にいい感情を抱いていなかった。
そして元春、長男の元言が相次いで他界した。
吉川家を継いだのは、豊臣に人質として出されるもすぐに暇をだされた広家であった。
広家は養子の件もあいまって、豊臣にいい感情がなかった。
そして関が原、広家の行動が大きく歴史を変える。
家康にだまされ、危うく毛利の断絶になりかけた広家はあせった。
広家にとって豊臣はどうでもいいし、石田三成は気に食わないが、毛利は大切だったからだ。そもそも家康も「毛利を大事と考えればこそ」といって広家を誘惑したのだ。
広家は自分に当てられた防長二国を毛利に謙譲し、自身は岩国藩に納まった。
しかし毛利から見れば、勝手に画策し、勝手に術中にはまった広家の行動を許せるわけがなく、こうして吉川岩国家は毛利に冷遇されるのである。
また時は勢いよく過ぎ、幕末。
長州征伐で騒乱状態の長州と幕府の折衝役に選ばれたのは吉川家であった。
蛇足だが。錦帯橋も江戸時代にかかった橋である。
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2008年10月 6日|
カテゴリー:ホームページ見聞録ブログ




