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ホームページ見聞録で“ホームページ”タグの付いているブログ記事
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2009年6月 4日|
カテゴリー:ocnホームページ
24時間はたらくネット集客の達人、ホームページは敏腕営業マン。
ずいぶん前の話で恐縮ですが、
ドリンク剤のコマーシャルで
「24時間戦えますか」というキャッチフレーズがありましたけど、
なかなか24時間も完璧に働ける人間なんていやあしません。
まあ、仮に働けたとしても、次の日、またその次の日にはダウンしているでしょうね。
起きていたとしても相当頭の回転は悪くなっているでしょう。
所詮、人間は食べて寝て起きる生き物なんです。
どんなに勤勉な人間だったとしてもそこには限界があります。
しかしホームページなら、それは可能です。
彼は休むことなく働き続けます。
経営者の皆さん。しかも、うれしいことに
ホームページには残業手当てがありません。
有給休暇もありません。
およそ人件費と名のつくものはかかりません。
立ち上げと維持管理にいくらかかかるくらいで、
長い目で見れば営業マンひとり雇うより安上がりだとおもいます。
ただし、あくまでも「ホームページを賢く利用できたなら」
という条件が必要になってくるのですけれども・・・。
ホームページを営業マンに育てる会は、
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インターネットからじゃんじゃん集客します!
中小企業の経営者の皆様、どうぞ「インターネット 集客」の
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2009年4月 3日|
カテゴリー:ホームページ
ホームページ検索で見聞を広げよう!
「見聞(けんぶん)」とは実際に見たり聞いたりする事であり、またそれによって得た経験・知識などをいうのですが、私も何かわからない事柄や調べたい事があるとすぐホームページを調べます。
ホームページの検索では例をあげるとすれば、どこかに行きたい時、どういった経路で行くと無駄がないのか?また費用は・・・などを調べる時など、知りたい事がすぐ分かりとても助かります。
検索した色々な情報等は印刷し活用します(これが見聞録という感じですね)
知りたい事がすぐ分かる。それも詳しくわかる事はとても便利です。
仏語で「見聞覚知(けんぶんかくち)」という言葉がありますが、これは六識の働き。
見る(眼識)・聞く事(耳識)覚る事(鼻識・舌識・身識)知る事(意識)です。
ホームページから得る情報量は大きいもので、自分の見聞を深く掘り下げたい時、少し興味があるという時など活用したいものです。
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2008年11月18日|
カテゴリー:ホームページ
吉川岩国家
だが260年の太平を飛び越えれば、吉川が毛利にとってどれほど重要だったか紐解ける。
そもそも吉川家は毛利中興の祖・毛利元就の最愛の妻の実家である。
そして元就の異母妹も吉川家に嫁いでいる。
さらにいうなら元就がまだ若かったころの中国は戦国最盛期であり、大内と尼子という巨大勢力がその覇権を争っていた。
大内は一度天下をとったほどの家であり、尼子は一度領土召し上げられても生えあがった屈強な家である。
そして元就たち国人はそのどちらにつくか、常に悩まされていた。
そんななか、二重の婚姻を結んだ吉川家は尼子についた。
だが毛利は尼子と衝突した。
そして吉川家に不幸か続くと自分の次男を養子に出し、吉川を尼子から大内・・・いや、毛利側へと転進させたのだ。
つまり吉川家は毛利にとって親族であり、ひとつの巨大派閥ともいえるだろう。
「毛利両川」といわれるように、毛利という主柱をささえる支柱の代表格であった。
だが豊臣政権から風向きが変わってくる。
豊臣は小早川を優遇し、吉川を冷遇した。また、吉川家当主の元春も秀吉にいい感情を抱いていなかった。
そして元春、長男の元言が相次いで他界した。
吉川家を継いだのは、豊臣に人質として出されるもすぐに暇をだされた広家であった。
広家は養子の件もあいまって、豊臣にいい感情がなかった。
そして関が原、広家の行動が大きく歴史を変える。
家康にだまされ、危うく毛利の断絶になりかけた広家はあせった。
広家にとって豊臣はどうでもいいし、石田三成は気に食わないが、毛利は大切だったからだ。そもそも家康も「毛利を大事と考えればこそ」といって広家を誘惑したのだ。
広家は自分に当てられた防長二国を毛利に謙譲し、自身は岩国藩に納まった。
しかし毛利から見れば、勝手に画策し、勝手に術中にはまった広家の行動を許せるわけがなく、こうして吉川岩国家は毛利に冷遇されるのである。
また時は勢いよく過ぎ、幕末。
長州征伐で騒乱状態の長州と幕府の折衝役に選ばれたのは吉川家であった。
蛇足だが。錦帯橋も江戸時代にかかった橋である。
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2008年10月 6日|
カテゴリー:ホームページ見聞録ブログ
新撰組の人
タイトルが新撰組である以上、多くの人が永倉や斉藤、沖田、土方、原田のような京都組を想像するだろう。
野村も京都からいるので、京都組で支障はないのだが、今回は鳥羽伏見後の新撰組の話をしよう。
この男、ありがちな熱血漢、というところがある。
毛色の合わない上司・春日左衛門とたびたびいさかいを起こしていた。
そもそも春日が上司になった理由は、上野彰義隊に参加したからだ。
近藤の側に付き添った野村は土方隊と合流するため幕府側の勢力に参加した。その時の上司が春日であり、この二人、ものすごく仲が悪い。
奥羽越列藩同盟を頼り北上するが、それも崩壊。
そして榎本の下に続々と幕府側があつまり―――その中に、野村が探していた土方がいた。
しかし、すぐに「副長見つけたから抜けるからな!」といえるほど組織・・・ましてまがりなりにも、軍・・・が言えるわけなく、野村はしばらく春日の別働隊を任されることになる。
そしてやはりいさかいが耐えない。
それがあまりに行き過ぎてしまい、結果、野村は土方所属の部隊へと移動されたのであった。
よかったな。二人とも。
野村の若い生涯は戦場で終わる。
宮古湾海戦により、彼の生涯は海に消えていった。
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2008年10月 3日|
カテゴリー:ホームページ見聞録ブログ
幕末の人物
・栄太郎ともいう
・無逸ともいう
・幕末長州の志士
・一時期江戸の旗本に取立てられる
伊藤博文と幼馴染である。
長州の伊藤旧宅と吉田の家は大変近くに位置し、年も2つしか離れていないとなればおのずと二人で遊ぶ姿が目に浮かぶだろう。
池田屋騒動でなくなった志士である。
池田屋が奇襲された際、なんとかその場を抜け出し長州藩邸に援軍を請うも、会津に張られている長州は援軍を出すことかなわず、「ならば槍をお貸しください」といい、再び池田屋に戻り果てた。
また池田屋は過激派志士の会議といわれていたが、桂と吉田は穏健派であり過激派の説得に会合を決めた、といわれている。
だが、吉田自身、師の松陰没後はかれの狂気を受け継ぐように、生前の穏健派からいっぺんしているため、真実は闇の中・・・・・・だろうか。
また彼は農民の出であり、本来ならば苗字はない。
吉田、という苗字は師にあやかってつけたといわれている。
彼は松下村塾の古参であり、三無や三傑といわれ、重要な人物であった。
三傑はほかにも久坂玄瑞と高杉晋作がいる。
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2008年10月 2日|
カテゴリー:ホームページ見聞録ブログ
双璧
【松下村塾とは・・・】
蟄居中の吉田松陰が開いた塾のこと。名の由来は「松下村にある塾」物事は得てしてそんなもの。
松陰自身は安政の大獄で29歳という若さで没してしまうのですが、その人生において低い身分ながら神童ど呼ばれ、藩主お目見えを果たし、遊学し、諸国の友人を携え、アメリカ戦に乗り込もうとし、自首し、のち回天を行う士を育て、非業の死を遂げる。と実に波乱万丈な人でした。
また「僕」「君」という当時主流ではない言葉を用い、塾生たちと自分は"対等"などだ、という姿勢を見せました。
師ということで年上に見られがちな松陰は大久保利通と同じ年生まれで西郷隆盛よりも年下なのです。
久坂玄瑞もまた、神童と呼ばれ諸国に遊学に行った人間です。
たが藩医の家柄のため、本当に漫遊に行ったわけではなく長崎へ蘭学を学びに彼は出かけました。
ちなみに医術の才能はなかったといわれています。
久坂がたぶんに影響を受けたのは20年上の実兄。藩医でありながら志士としても活動する玄機の姿に幼い玄瑞はあこがれたのでしょう。
ですが、父と兄をはやり病で亡くした玄瑞は次男でありながら家禄を継ぎ、志士ではなく藩医として兄を継ぐはずでした。
そこで出会ったのが松陰です。
自分と同じ神童と呼ばれた松陰に興味を持った玄瑞は手紙を送りました。
しかし返ってきたのは挑発ともとれる文章です。
憤った久坂さらに手紙をかき、塾に入る前からこの二人は何度もふみのやり取りをし、いろいろあった最後に久坂は松陰を尊敬し、門下に加わります。
松陰は大変感動しました。
しかし、松陰は気がつきました。
この塾に久坂と切磋琢磨できる人がいないことを。曲がりなりにも自分は師です。腰は低いが年長者だし導く立場の自分はとても久坂と切磋琢磨できません。
竜虎そろわず・・・・・・松陰は嘆きました。
ちなみにこのころ塾にいたであろう人は、三傑といわれ久坂・高杉と同等に語られる吉田栄太郎(のちの稔麿)や四天王といわれ三傑とともに称えられる入江九一・野村靖兄弟・三代目総理山県有朋・初代首相伊藤博文などなど(前後している人もいるが)とにかく後世の人間からみたらすごい人ばかりでした。ほかにも東洋のナポレオンこと山田顕義や品川弥二郎、前原一誠などなど、とにかくすごいラインナップなのです。
高杉を松下村塾に誘ったのは久坂でした。
高杉は生まれつき体が弱く、また上士高杉家待望の嫡男というだけあって大変箱入り息子でした。通うことすら名誉である明倫館に身を入れず剣術にはまっていた時期です。
そんな高杉に久坂は松下村塾を紹介しました。
が、高すぎは箱入りなのです。蟄居中の人間が下士農民に教えている塾に通うことを許すわけが無い!! 祖父に頭の上がらない高杉は仕方なく家族の寝静まった夜に松下村塾へ通いました。村塾が24時間フリータイム制だからできたことなのですね。
高杉は親の監視が厳しく行けない日は「愚父が物分りわるくて・・・」と手紙をだしていました。ちなみに父親にも頭が上がらない人です。
久坂と違い高杉はすぐさま入門しました。
ただし松陰によって強烈に自尊心を刺激され久坂をライバルと思わせた上で、ですが。
松陰は喜びました。
この塾に竜虎がそらった、と。
実際廃れていた高杉は見る見るまに力をつけます。もともと明倫館での成績も軒並み上がり優等生になったそうです。そうして二人は名実ともにライバルになり、しのぎあい競い合い助け合う二人を人々は「松下村塾の双璧」と呼ぶようになりました。
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2008年9月30日|
カテゴリー:ホームページ見聞録ブログ
薬剤師さん、お助けください
健康志向が高まるとともに、薬局でも気軽に買える薬の種類が増えてきました。
おそらく多くの人が愛用の薬を持っている、そんなことでしょう。
また、少し前に「患者は殺さず薬漬け」など悪質な言葉も飛び交い、薬を使用する傍ら、拭えない不安を人々は持っています。
だからこそ、医師にポンと渡された薬ではなく窓口で薬剤師さんが丁寧に説明してくれる薬をみな、欲します。
薬の起源は「毒をもって毒を制す」
つまり体の悪い部分と異物をぶつけさせて相殺するのが、薬の起源でした。
その家庭で水銀や砒素までも薬とみなす風潮があったことから、科学の裏づけの無い薬・・・民間療法の否定・・・など、さまざまな道を歩んできました。
そして今、無病息災から一病息災へと変化した今。
日常生活を営むために人は薬を飲みます。
それは今の生活を失いたくないからです。
どうか、その手助けを
お願いします。
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2008年9月30日|
カテゴリー:ホームページ見聞録ブログ




